前回1985年(昭和60年)1月中国・湛江発電計画の出張は、中国・海南島近くまで、片道マイクロ・バスで丸1日かかるところを往復費やして、350MW2基・石炭火力発電所の総合的な話で、当社製品の売り込みというか、技術PR、いわゆるプレゼンテーションであった。 海南島は、昨年(西暦2000年)93歳で他界した親父が、終戦前の台北帝大時代に甘藷(サツマイモ)の研究をしていたところで、今、米中間両国の空軍機接触事故で、ホットな話題の舞台になっているところだから、何やら因縁めいたものを感じる。 今回は、1987年(昭和62年)12月に北京、上海、さらにまた、1988年(昭和63年)3月に北京という、小生入社以来初めて、当社でも類例の無い火力発電所リハビリのための診断という珍しい海外出張になった。前回の辺鄙な広東州の湛江市に比べれば、中国でも北京、上海は、政治経済の中心部の大都会訪問という事になる。 念のた中国全体地図と北京市、上海市の各地図紹介サイトを挙げておこう。 自社納入製品中心のトラブルシューテイングに端を発した納入機器の経年劣化を判定する寿命診断と機器リプレースを伴ったプラント出力向上や性能改善の仕事は、一種のリカバリー(再生)ビジネスとして、国内火力、原子力発電所に数多く適用されてきた市場と言える。しかしながら、 しかも、両国の公的機関の橋渡しにより、国内火力・原子力分野を担当する著名な3大グループに呉越同舟よろしく仕事が割り当てられた。遼寧省・錦州(きんしゅう)サイトをMグループ、山東省・済寧(さいねい)サイトをHグループ、上海市・閔行(みんこう)サイトをTグループが、それぞれ担当し、各既設石炭焚発電所を調査・研究して、それなりのリハビリ提案(発電所出力向上策など)を入れたカルテを提出するという、後にも先にも極めて珍しい海外業務出張になった。 小生は、元来国内担当なのに、折りにふれて変な海外出張ばかりさせられたと、事ある毎にボヤイてきたが、今回もその例外ではない。しかし、10年以上経って会社人間を卒業した今、つらつら考えてみると、この北京、上海、北京出張は、最初の会社を早期定年退職する寸前の私に、慰安の意味を込めた上司の温情があったのかなあ、とも思うのである。 因みに1988年(昭和63年)4月、小生は、最初の会社を早期定年退職して、関連会社に転籍になった。 今回は、中国からの正式招待状が来ての出張だから、手続き上、入国にあたっては楽なものであった。いささか長くなるので、前半の発電所調査、後半の調査報告の2編に分けて記述しようと思う。このページは、前半「その1」である。 |
▼1987年(昭和62年)12月全行程/FONT> 昭和62(1987)年12月6日(日) 10:00成田発 同日 13:40北京着。北京・門前飯店泊。 12月7日(月) 水利電部と打ち合わせ。北京・門前飯店泊。 12月8日(火) 8:35 北京発 同日11:25上海着。8日以降錦江飯店泊。 12月9日(水)〜13日(日) 上海市・閔行(みんこう)サイト調査等。 12月13日(日) 14:20 上海発 同日 19:27 成田着。 |
▼成田〜北京(12/6) 今回の北京行きは小生初めての旅行である。火力発電所の各主要機器の技術者が一緒に行くし、通訳もついているので、気楽であった。 物見遊山に行く訳では無いので、例によって出発は日曜日であった。しかし、出発2時間前の午前8時までに成田へ自宅から行けないので、三軒茶屋のホテルに前泊した。 下はいずれも、12/6 成田出発後、北京近くの中国上空写真。 上空からの大陸の写真は何故かよく撮影する。 左は12月なので山稜線に冠雪しているのが分かる。右は北京空港に近く、蛇行している河が見えるが、名前は知らない。 |
▼北京(12/7) 公的機関がからんでいると先に述べたが、各担当のサイト調査に各グループ4〜5名が張り付く訳で、呉越同舟の各グループ・メンバー13名がまず北京に集結した。 ここではあちら様を中方、こちらを日方と呼ぶ。 中方の発電を扱う部門は我が国で言えば、通産省と電力会社が一緒になったような国の機関で、中国・電力庁と呼んでおく。その総本山が、北京にある水利電力部である。12月7日(月)は、これから訪れる予定の各発電所の幹部も一同に会して双方顔合わせ、スケジュール打ち合わせが行われた北京・京倫飯店(Hotel Beijing-Tronto)の会議室は、すごい人数であふれた。接待係が、蓋の付いた大きな茶碗で、空っぽにならないよう、気を配ってお茶を振る舞っていたことだけが印象に残っている。全体会議の模様をカメラに納めていないし、12/7夜は中方の歓迎宴、12/8夜は日方の答礼宴が行われたが、そのときの写真もないので、あちらでもらった、M,H,T各グループの担当サイトの載った地図、北京のホテル所在地図を載せておく。 この日は会議の合間を縫って、初めての北京の中心部、天安門広場を同僚と束の間の散策を楽しんだ。我々が訪問した時点は、数年後の天安門事件等予想し得ない平和な頃であった。その時のスナップをいくつか紹介するが、これが中国大陸かと思わせるに相応しい、天安門広場は、桁外れに廣い場所であった |
人民大会堂前 | 毛沢東記念堂前 | 左・人民英雄記念碑 右・中国革命博物館 |
後方・天安門 右・人民英雄記念碑 |
天安門 | 北京飯店前 |
▼北京〜上海(12/8) 北京から、当グループが調査を担当する上海へ開戦記念日の 12/8朝、民航で飛びたち、約3時間で上海空港到着。 |
上海空港間近 | 民航、上海空港到着 |
1987年の上海マップは |
ナイトキャップ | バス・トイレ1 | バス・トイレ2 |
部屋の造作1 | 部屋の造作2 | ベッド・カバー |
ダブル・ベッド | 部屋の造作3 | 部屋の造作4 |
錦江飯店中楼18階 最上階の3つ窓が宿泊ルーム |
宿泊ルームからみた中庭 |
宿泊ルームからみた上海市街 | 同 左 |
▼12月9日(水)〜12日(土) 上海市・閔行(みんこう)発電所調査及び技術交流 言い落としたが、我々Tグループの調査対象は、この閔行発電所の第9号機、125MW(十二万五千キロワット)機であったが、定格銘板は中国語でも生まれはソ連製であった。設計思想や構造等は、欧米の考え方に馴れている我々には奇異に感じられ、後の技術交流でも熱心な質疑応答がなされた。 私は中国に来てから中国料理本場での政府相当の電力庁の歓迎宴、それに対応した答礼宴での素晴らしい中国料理を賞味した。でも、ここ閔行発電所の昼飯(勿論支払うが安い)の中国料理は、今まで何処でも味わった事がない素晴らしい料理であった。鯉の唐揚げ、雲母のような水気のない卵スープなど、ここのコックさんの腕前の高さを感じた。我々4人には、とても平らげられない料理のヴォリュームである。聞く所によると余った料理は、コックさん一家の昼食になる由であった。 |
閔行発電所外観 | 閔行発電所・発電機群 |
特高開閉所 | 主要変圧器 | 配電盤 |
中方のメンバー(会議室) | 中方・日方のメンバー仲良く(屋外) |
発電所のコックさん | 昼食時コックさんと記念撮影 |
技術交流(於錦江飯店南楼) 日方説明(左 通訳) 97.12.12 |
同 左 |
技術交流(於錦江飯店南楼) 中方メンバーの面々 97.12.12 |
同 左 | 同 左 |
▼束の間の上海観光(12/11〜12/12) 12/11(金)技術交流後、宿舎へ帰る途中、漕渓公園をチョイ見し、また、12/12(土)技術交流が全部終わった午後、客先(中国電力庁・上海工程局)アレンジのハイヤーで、上海市内の玉佛禅寺、豫園、黄浦公園、黄浦江、上海大廈、外白渡橋、国際海員クラブの辺りを駆け足で散策した。玉佛禅寺の玉佛は、大理石で出来ているのであろうか、写真撮影禁止で、お布施を出したら「おふだ」を呉れた。玉佛禅寺、豫園は入園料が、中国人0.5元、外国人2.0元の凄い格差に吃驚した。小生の豫園前の風貌・いでたちなら中国人で通用したかもしれない(後日談)。黄浦公園、黄浦江界隈は、凄い交通渋滞で、イライラさせられた。しかし、降りてからの散策で、夕焼けに映えるあれは昔風にいうと上海租界というのだろうか、黄浦江沿いに川越しの近代建築の眺めは圧巻であった。我々の宿舎、錦江飯店は一級のホテルであろうが、仕事抜きで、こんなに良い設備で泊まれたらいいなと、つくずく思ったのであった。今一度想い出の上海マップを挙げておく。 生まれて初めての上海をいささかでも体験出来て、幸運であった。 |
漕渓公園 97.12.11 | 同 左 | 同 左 |
玉佛禅寺「おふだ」 玉佛は撮影禁止 97.12.12 |
同 左 | 同 左 | 同 左 |
豫園 入り口、一見中国人風?の私 97.12.12 |
同 左(同行仲間達) | 同 左 |
右 黄浦江 左 黄浦公園 97.12.12 |
右 上海大廈 左 外白渡橋 97.12.12 |
国際海員クラブ 97.12.12 |
▼帰国(12/13) 中国本土は2度目の訪問、北京、上海の大都会を短い滞在期間ながら体験できた。遼寧省・錦州(きんしゅう)サイトのMグループ、山東省・済寧(さいねい)サイトのHグループと他の2グループが、北方のサイトを担当して、帰途北京に集結して速報・報告したのに、我がグループは当初から上海より直接帰国する事になっていた。 数ケ月後に今回の調査・検討結果の報告するために再度北京を訪れる事になった。この後半「中国・火力発電所のリハビリ・その2」は、海外ビジネス出張最後のりポートとしてアップした。 |