オリンピックのメキシコへ

 

  入社10年目の昭和43(1968)年、ちょうど秋のメキシコ・オリンピック開催寸前に今度はメキシコへ出張命令が出た。部門は違うが、先輩格の機械技術者と一緒で孤立無援でないだけ、第1回目のセイロン出張に比べれば楽であった。

  私の部署は、熱エネルギーによる発電設備、つまり蒸気タービンや内燃力機関を機械的駆動源にした発電設備の電気関係の技術とりまとめ担当である。昭和40年初頭は、日本国内では高度経済成長期の入り口にさしかかる頃で、技術提携も火力発電設備の大容量記録を次々に更新する出発点にあったと言って良いだろう。その一方では、受注出来るかどうか分からない輸出の見積物件がやたらと多い時代であった。

  記憶によれば、9月初のある日、メキシコの事務所からテレックスが入り、かねてから見積もっていた地熱発電設備40,000KW級2基の受注が決まり、納期起算日8月13日で、納期はFOB14ケ月(フリー・オン・ボード、つまり船荷出荷ベースの納期)だから、仕様固めの打合せのため早急にエンジニアを派遣せよとの連絡が入った。FOB14ケ月も超短納期なら、その起算日も半月以上前に始まっているのだ。そこで機械、電機の各技術者が選ばれ、電機関係は小生が指名された。

  火力発電の場合は、化石燃料の石油や石炭を燃やしてスチームジェネレーター(蒸気発生器)なる通称ボイラーで蒸気を発生させ、これで蒸気タービンを駆動するが、地熱発電は、地球がそのスチームジェネレーター本体である。地球がボイラーだから人為的な高温高圧のボイラーと違って、低温低圧蒸気の熱エネルギーを取り込むため、タービンの翼(ブレード)は、等価容量的に10倍位(20,000KWなら200,000KWと同じ位の図体)のとても大きいものになるが、当社では東北の八幡平近くで、国民休暇村がある松川に、当時国産最大容量の20,000KW地熱発電設備を納め、これが既に稼働している実績があった。10年以上前からボーリング調査が進められ、何んとか地熱蒸気が継続して噴出する見込みがついて、昭和40年初に機器を納入したが、タービン、発電機、変圧器など主要機器は重厚長大そのもので、あの山奥までの搬送のため、道路を造り、橋を架けるという難事業であった。その道は、その後国民休暇村への主要ルートとなったのである。

  地球は、最近の地震をみても分かるように人間系ではノーコントロールというか、治外法権というか、勝手気儘に活動するから、我が人間も知恵を働かせてステイーム・セパレータ(気水分離器)なるものを置いてタービンを保護すると共に、タービンのブレードには堅くて高価なチタンを使っている。しかし、気まぐれ地球は、時として蒸気と共に岩石をえらい勢いで急に噴出するので、それがステイーム・セパレータを貫通して、かの堅いチタン製タービンのブレードを破損するので、修理のために地熱発電設備を休業に追い込むケースもままあった。

  地熱発電設備について語る場合、機械系が前述なら、電気系はもっと始末に負えない。ご承知のように電気系は良導体の銅を多用しており、デリケートな保護継電器(通称リレー)等にはバネ効果の優れた燐青銅を使っているが、これらには、かの硫黄の硫化水素が鬼門なのだ。松川地熱発電所の電気品も真っ黒な硫化銅にやられて、一旦緩急ある時、働かないでは事故拡大につながるので、硫化水素が屋内に侵入しない工夫をした。小生はメキシコ出張を前に、松川地熱発電所へ赴き、地熱の実体をこの目で把握して来たのである。

  メキシコへの出張期間は、昭和43(1968)年9月25日〜10月7日の延べ13日間であった。

 当初は、国際オリンピックが終わってから、会議をしようとの客先要望であったが、当社としては超短納期である上、サイトの雰囲気条件不明、図体の大きな発電機器の輸送問題等の難題があるので、現地調査をしてから打ち合わせに臨む必要があることを申し入れ、国際オリンピック前の会議開催となった。

  この地熱プラント名は、CERRO PRIETO(スペイン語でプリエト山の意?)というが、ユーザーに迷惑をかけずに自社のプロフィットを増やすよう折衝に務め、且つ、工場が製造容易な内容にまとめるのが、この時の現地調査とテクニカル・ネゴシエイション(技術折衝)であったが、客先も慌ただしい中、十分協力してくれたので、幸いにして初期の目的は果たせたと思う。

松川地熱発電所
国定公園の景観
を配慮した巨大
な冷却塔
  昇圧変圧器の
    冷却フインの横で
   周囲の雰囲気中の
   硫化水素ガスを
   測定中
▼  昭和43(1968)年9月25日19:15羽田発、直行便で同日現地時間13:25ロスアンジェルス到着。滞空10数時間の機内は日本の生活感覚で言えばこれから夜が更けて眠りにつくはずのところ、飛行機は過去へ逆戻りしている訳だから、だんだん回りは明るくなり、何んだかボケーっとした気分で、生まれて初めてのアメリカ・ロス空港に降り立った。

  ホテルに入ると何でも見てやりたい好奇心は旺盛であったが、睡魔に勝てず、これが噂の時差ボケなのだろうが、しばらくホテル回りを散策したら、ホテルに戻ってベッドに潜りこんで寝てしまった。

  夕方、当社ロス事務所駐在員S君のエスコートでリトル東京とか言うところで、寿司をご馳走になったが、シアトル産の数の子昆布という珍しい物を食した。そのあと夜中のハイウェーをハリウッドまで案内してくれたが、当時見た事があるルート66という映画の現場というか、その道路も車で案内してもらったが、全てが夢うつつのようなロスアンジェルスの夜は更けて行った。

  初めての米国ロスアンジェルス
 の町風景1968.06.25
  ホテル近傍
 のモータープール 1968.06.25
 ▼翌日、昭和43(1968)年9月26日、当社メキシコ事務所駐在員のN君が来てくれ、3人でロスアンジェルス空港から国内便で、USA南端のエルセントロ空港へ向かうのである。国内便だからあまりサ−ビスは良くなかったと思うが、カクテルグラスの縁に塩をちりばめた、例のメキシコ焼酎テキーラのカクテル、マルガリータを飲んだ記憶がある。エルセントロ空港に着いたらメキシコ電力庁の職員が車で迎えに来てくれていて、途中、国境で通関手続中、日本人が来るのは初めてらしく、その辺のオバチャンが来ると係官は手続きはほっといて、世間話を始める、やっと終わったと思うと、また次の障害が入るという具合で、通関手続にえらく時間がかかった。イライラさせられたが、お国柄の違いはいかんともし難い。こうして我々は、無事メキシコ国のメヒカリ(英語読みならメキシカリ)に入ったのだった。メヒカリのホテルで1泊した翌日9月27日、地熱発電所設置予定地の現場調査に向かう。当地は、付近には一面の綿畑があり、遠く西方向のサンデイエゴ方面に山がある以外は、いわゆる黒砂の塩田みたいな平地が広がり、我々の火山という常識からかけ離れた一種独特なサイトであった。ボーリングの試掘は数多くやっており、塩が出ているところ、石灰が出ている所、その他色々な物が析出していて、既に結晶になったのは何本かのドラム缶に入れていた。自分としては、松川のような硫化水素のにおいが無かったので、当地は電気品に問題を与える硫黄分が無いのでは、とチョット安堵した。調査を終えてから、メキシコ電力庁現地事務所で打合わせたところ、我々が一番気にしていた大気や水についての腐食関係のデータが何もないことが分かった。冷却器の材質はユーザ指定の材料を使うが、後日当方よりサンプルを送るので、腐食調査をして欲しいこと、大気中の硫化水素の有無を調べて欲しいことの2件を確認文書を添えて客先に依頼した。こちらのお国柄なのか、オフィスは午前中10:00〜14:00、午後が16:00〜19:00という執務時間であった。お昼は客先のエスコートで、メヒカリ市内のレストランにてシーフードをご馳走になったが、日本でいう大粒の蛤のような殻が黄色な二枚貝を茹でたのが、大皿一杯の山盛りで出てきたのには吃驚しが、これだけが今でも鮮明な記憶として残っている。他に何が出たかは忘れてしまった。テキーラもあったと思う。

  北米南端
  エルセントロ空港
  1968.09.26
  北米・メキシコ国境
  1968.09.26
  メヒカリの宿泊ホテル
  1968.09.27
  メキシコ・シテイへ
 1968.09.28
  ▼  メヒカリに2泊した翌日、昭和43(1968)9月28日、当社メキシコ駐在員のN君と現地駐在の商社マンKさんが、朝方ホテルに迎えに来てくれ、一緒にメヒカリ空港へ。メキシコへの正式入国手続きはこの空港でやる訳だが、小生達は土産の引き出物を日本から持って来ていて、この通関が厄介だったのだ。メキシコ政府の仕事とは言え、空港係官も○○の下を求める御時勢だったから、メキシコ駐在員のN君一人で孤軍奮闘してもらった。話にみんなで割り込むと皆に要求してくるので、彼一人にまかせたが、しばらくしてようやくOKが出た。

  こうして日本を出てから4日目にようやく最終目的地のメキシコ・シテイに入国、これから10月5日に帰国の途につくまで、正味6日間をCFE(メキシコ電力庁、Comission Federal de Electricidad )との技術折衝、M.シテイから車で往復1日がかりの某地熱試井(サイト名失念)の調査の他、あいだに休日がはさまったので、折角来たメキシコの手短な観光に当てたのである。

  技術折衝では、前述の腐食対策に関わる問題ともう一つは発電機器の輸送制限の問題があった。大物は分割製造するにしても限界があり、荷揚港はサンデイエゴとし、西海岸の山を越えてサイトまで、ハイウエーの片側車線を通行制限して搬送する事になった。同じM.政府機関だからこの辺の融通がきくのは有難かった。

  先にも書いたように客先との打合せは午前中の時間帯、それに国際オリンピック寸前で相手は多忙を極め、アポイントが取れても待たされる事が多く、実際の会議は切れ切れの効率の悪いものであった。しかし、事前に打ち合わせ議題をまとめてきた事、メーカーリコメンドやこのプロジェクトについてのコメントをまとめて打合せ資料として提供したことが効を奏したといえる。客のプロジェクト担当は英語を聞くのは分かるが話せない、我々はスペイン語はさっぱり駄目、と言うことで、スペイン語、日本語、英語のチャンポン会議の様相であった。現地駐在員が間を取り持ってくれたものの、テクニカル・ターム(専門用語)が多くて苦労しているで、結局、相手には絵を書いて英語で説明、相手はスペイン語で応答、現地駐在員はスペイン語で相手に、日本語で我々に応対する形で、お互いに理解しあった。

  M.シテイに来て3日目あたりから頭が何と無く痛いのである。標高が高いので高山病現象がでると聞いてはいたが、小生もその洗礼を受けた訳だ。しかし、会議はとても緊張するので、頭痛を気にしているゆとりもなく、その内に頭痛を忘れてしまった。慣れて来たのかも知れない。

  さて、つかの間の時間、現地駐在員諸兄の御協力を得て、国際オリンピック開催目前の市内や郊外を足早に見て回った。

  下の4コマは、某地熱試井(サイト名失念)の調査に行った時の道中のスナップである。

  M.シテイから地熱試
 掘現場へ調査に行く
 
  途中の原野でシャボテ
 ンに赤い実がついてい
 たので小休止
  味は忘れたが、実の表
 面に繊毛みたいな棘が
 あって往生した。
 右側私
  セルフタイマーで撮影
後列左から機械技術者
Iさんメキシコ現地駐在員
N君前列右、商社マンKさん

 
 
▼  メキシコには古代遺跡が豊富にあるようだが、中でも月と太陽のピラミッドが有名だそうで、若干の時間をやりくりして見学に行った。自分で登ったのがどちらのピラミッドだったか覚えていないが、「お山の大将俺一人」にある豆粒みたいな小生がいる所は、聖火台だったと思う。その場所は頂上のように高く見えるが、その右の写真「地表から見たピラミッド」から分かるように4の1くらいの位置で、実際の頂上は遙か上にある。
  M.シテイの古い寺院    月と太陽のピラミッド   ピラミッド上からの眺望
  お山の大将俺一人   地表から見たピラミッド   2つのピラミッドを背に
   証拠写真、右が小生
▼ もうあと何日かで国際オリンピックが始まる。完成間際の競技場を見に行く。大会が始まったらこんな静かな競技場なんて見られないだろうし、第一入れるかどうかもわからない。一説によると大会が始まったらホテルが取れないのも、その前に会議をする一因だったと後で聞いたが、納期の事と合わせて本当の事であったろうと思う。

  ちょうどこの時期オリンピック記念の25ペソ銀貨が発行されて、2枚買った。1枚は友人に上げたので手元に今1枚残っているが、32年もたった今、どのくらいのお宝価値があるのだろうか。興味がある。実はこのホームページに入れようと安物のデジカメで写真に撮ったのだけれど、光った丸い陰しか見えないのでアップを断念した。

  探し物していたらオリンピック記念の25ペソ銀貨を発見、スキャナで取り込んだので以下追記した。47年経った今、お宝価値に興味がある。(2015.10.26追記)

 オリンピック記念の25ペソ銀貨・表  オリンピック記念の25ペソ銀貨・裏

  メキシコに行っていたころ、小生はヘビー・スモカーだった。日本で20本入りが40円位であったろうか。M.シテイの町中で買うとあちらは専売局がないらしく、売店によって同じ銘柄でも値段が違うのである(外国人だからボッタのかも?)。それに紙幣・貨幣に算用数字がなくスペイン語で書かれているのだ。いくら、しゃべれないと言っても訪れる国の数字だけは覚えてゆくべしと言うのが小生の反省の弁である。

  メキシコにはタコスといって、コーンの粉をホットケーキの薄手にしたような焼いたものを作り、その中に色々な具を入れて食べる。あるとき、高級品のタコスをよばれたが、とても美味であった。ところで具は何かと聞いたら、猿の脳味噌だと聞いて、ゲ〜となったが、時すでに遅く胃の中に収まっていた。

  竜舌蘭の根は有名なメキシコ焼酎の原料だが、葉っぱの繊維は布になるし、尖った芽はあれを針にして、その後に続く繊維を糸にして、原住民は裁縫をしていた由である。

  開催直前の国立競技場
 看板に(19)68と見える
  同左内部   メキシコ大学
  ▼10月5日、遂に帰国の日がやってきた。海外出張でこんなに長いのは初めてで、また、アメリカもメキシコに行くのも初めてだった。遠路遙々来たので帰途は、サンフランシスコに寄ってからハワイ経由のルートになった。サンフランシスコには当社の海外法人があるし、同期入社の友人O君もいるので、単身赴任の彼の家に行き、ゴールデンゲートブリッジを案内してもらったりして楽しいひとときを過ごした。ここで1泊して10月6日サンフランシスコを立ち、ハワイ経由10月7日に無事帰国、大任を果たしたのである。

  某メーリングリスト仲間の一人は、当時(昭和40年の前半)、ハワイに寄るのは海外出張組帰途の定番だったそうであるが、小生達はハワイに泊まるほど優雅ではなかった。燃料積み込みの間だけホノルル空港でひと休憩しただけである。

  帰国途中ホノルル
  空港で小休止
  1968.10.06
  ホノルル空港
  の家族連れ
  1968.10.06
     ハワイにお別れ
      一路日本へ
      1968.10.06


  追伸:

  昭和50年代になって今回と同容量の3、4号機の2基、その後、さらに100,000KW級4基を納入した。アメリカ西海岸のカルフォルニアは、同じ火山系にあるらしく、PGE社(パシフィック・ガス・アンド・エレクトリック)のガイサー発電所に後年地熱発電設備を大量に(合計で100万KWに近かったと思う)納めた。

  後年の輸出・地熱発電機器の受注増大に小生達が苦労してやってきた、メキシコのセロ・プリエト地熱発電所の技術折衝が、その下地になったと言えば過言であろうか。


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